LOGIN静かな住宅街に黒いタクシーがボディを朝陽に輝かせて滑り込む。聳え立つ十五階建てのマンションは、まるで私の孤独を見透かすように冷たく佇んでいた。タクシーのドアを閉め、ショルダーバッグを肩にかけ直すと、足元のハイヒールが舗装路に軽い音を立てる。郵便ポストに目をやると、健吾のブラックカードの支払い明細書が無造作に投函されていた。封筒の角が少し折れ、まるでこの家の不協和音を象徴しているようだ。私は直感的にそれを手に取り、ショルダーバッグの奥に押し込んだ。知らなくていい真実がそこに書かれているかもしれないのに、なぜか今はそれが必要な気がした。
大理石のエレベーターホールにハイヒールの音が鋭く響く。鏡張りの壁に映る私の姿は、どこかよそよそしく、まるで別人がこれから戦場に赴くかのようだった。私は見たくもない光景を目の当たりにするために、ためらいながらもエレベーターのボタンを押した。
「……まだいるのかしら……いるわよね」
独り言が小さく漏れる。静かな機械音が響くエレベーターの箱の中で、七海という外来生物の存在に眉間にシワを寄せた。彼女の黒曜石のような瞳、健吾を絡め取る甘い声が、頭の中でこだまする。上昇するエレベーターの窓から見下ろす街の景色は、まるで私の心のように遠く、冷たく広がっていた。十五階に近づくにつれ、胸の鼓動が速くなる。あの部屋で、健吾と七海がどんな時間を過ごしているのか。ドアが開く瞬間、私は息を呑み、ショルダーバッグを握る手に力を込めた。登記簿謄本の重みが、私の決意を静かに支えている。
「ただいま」
誰に言う訳でもなく、条件反射のように言葉が口から転がり出た。玄関に一歩踏み入れた瞬間、鼻先を掠める卵を焼いた匂いが、まるで鋭い刃のように私の胸を刺した。健吾は七海にあの不恰好なオムレツを振る舞ったのだ。きっとケチャップで真っ赤なハートを描き、照れ臭そうに襟足を掻きながら、彼女の笑顔を愛おしげに見つめているのだろう。
かつて私にだけ向けてくれたその仕草が、今は別の女のために繰り返されている。想像するだけで、絶望が冷たい波となって押し寄せる。私は大きく息を吸い、リビングのドアの前で立ち止まった。なんと言葉を掛ければいいのだ? 朝の挨拶か、それとも彼らの親密な時間を切り裂くような一言か。胸の鼓動が早くなり、ドアノブを握る手が汗で滑る。
ショルダーバッグの中の登記簿謄本が、かすかに紙の擦れる音を立て、私の決意を静かに支えた。
「おはよう、美味しそうな匂いね」と、精一杯の笑顔を貼り付けてキッチンに目を遣った。だが、そこには信じがたい光景が広がっていた。
七海はソファにだらりと身を預け、テレビのリモコンを退屈そうに弄っている。一方、楠木グループのCEOたる楠木健吾が、エプロンを腰に巻き、シンクで汚れた皿やフライパンをゴシゴシと洗っていた。泡が飛び散り、彼の白いシャツの袖が水で濡れている。私は我が目を疑った。天下の健吾が、まるで新米主夫のような姿で台所に立つなんて。七海はチラリとも彼を見ず、テレビの音量を上げた。その無関心な態度に、健吾の背中が一瞬だけ小さく見えた。
「……健吾がお皿を洗うなんて初めて見たわ」
私は言葉を失い、リビングの空気が妙に軽いのに、胸の奥で何かが重く沈むのを感じた。
「七海は火傷で指が使えないからな」
……この家は、誰のためのものだったのだろう。私はその場に崩れそうになった。
「結城七海が供述を始めたそうだよ」 相馬がティーポットに湯を注ぐとハーブティーの香りが穏やかにリビングを満たした。事情聴取の一部を入手した彼は、マンションのベランダの椅子で微睡む私に紙の束をそっと手渡した。それは薄っぺらで七海の人生を具現化したようだった。七海の過去は、まるで彼女自身が描いた偽りの肖像画のように、表層だけが美しく塗り固められていた。 本名・結城七海。 母である結城七恵は健吾の父の愛人で、楠木家に「遠縁の娘」として七海を養子として迎えさせた。七恵は、表向きは「未亡人の叔母」として楠木家に寄り添いながら、裏では愛人契約の金と脅しで生活を支えていた。七海は物心ついたときから「楠木家の可愛い義妹」という仮面を被ることを強制され、健吾を「お義兄ちゃん」と呼ぶことを刷り込まれた。 彼女は名門私立に通いながら、母の指示で「楠木家の令嬢」として振る舞う。成績は中の上だが、容姿と「楠木」という名前で常に注目され、嫉妬と崇拝の的だった。裏では母が「健吾を誘惑しろ」と囁き続け、七海は無意識のうちにそれを「愛」だと信じ込むようになる。高校三年のとき、初めて健吾と肉体関係を持った夜、母は「これで一生安泰よ」と微笑んだという。 慶應義塾大学に内部進学後、すぐに休学届を出し、オックスフォード大学へ留学(表向きは楠木グループの奨学金)。実際は健吾が私財を流用して作った「七海専用基金」で、授業料・生活費・高級ブランド品まですべて賄われていた。 論文盗用は母の指示。七恵は「学位なんて飾りだから、適当にやっておきなさい」と言い、七海は他人の論文を切り貼りして提出。今回、七海の論文再検証にあたり盗用が発覚した。彼女は「母がそうしろと言った」と泣きながら白状したが、すでに遅かった。 七海は「愛されていたい」という欲求だけを純粋に抱えながら、母に操られ、健吾に依存し、私を徹底的に敵視していた。 彼女にとって「楠木」という名前は、呪いでもあり、唯一の救いでもあった。だからこそ、すべてが崩れたとき、七海にはもう逃げ場がなかった。殺人犯の娘、実の兄との近親相姦、虚偽の妊娠、学位剥奪……彼女が最後に呟いた言葉は、警察の取調室で録音されている。「……お義兄ちゃん、助けて……」その声は、もう誰にも届かなかった。 「気の毒ね……」 私は穏やかな陽光がレースのカーテンを
その頃、警察では内密に捜査が行われていた。依願退職した元刑事・田辺が鑑識に持ち込んだ殺人報酬金「800万」のメモと、楠木家の香典帳「8」の筆記が同一と判明。丸を二つダルマのように重ねた「八」の主は、七海の母親・結城七恵だった。祖父の形見分けの日、私も香典帳に数字を書き、周囲の親戚が確認していた。私は警察署の捜査第一課と書かれた室名札の小部屋に通され、埃っぽいパイプ椅子に座らされた。「この度はご足労いただき……ありがとうございます」軽く会釈した彼の声は低く、嗄れていた。強面の警察官がバインダーを持ち、軋む音を立てゆっくりとパイプ椅子に腰掛ける。女性警察官がノートパソコンを開き、乾いた音で一字一句確実にキーボードに打ち込む。私は内容を知らされぬまま事情聴取を受けたが、目的は明らかだった。結城七恵に殺人容疑がかけられていた。警察官は私が結城七恵の名前を呟くのを今か、今かと待っている。健吾の次は七海だ……母親が殺人を依頼し、愛人を殺害した犯人と知れれば、七海は一生その事実を背負う。私は悲哀の義理の姉を演じ、白いハンカチを握り「……この字は……結城七恵さんの字で間違いありません」と俯く。その言葉に警察官は合図し、数人が暗い廊下の奥へ足早に消えた。「八」の筆跡、お祖父様が握っていた赤い糸、その証拠が七海の黒曜石の瞳を奈落の底に突き落とす。健吾の両親の自動車事故はブレーキ不具合によるも
週刊誌は、楠木家の奥深くに隠された闇を容赦なく白日の下に晒す。私を裏切り苦しめた健吾と七海に、ロンギヌスの槍が次々と突き刺さる。倒れ始めたドミノはもう止まらない。私はジョーカーの爆弾を眺め、相馬の民法に守られ高みの見物だ。シワのついたスーツで謝罪する惨めな健吾、青ざめた七海の黒曜石の瞳、全てが私の手中にある。膨らみ始めた下腹を撫で、「あなたは私と幸せになるの」と子供に優しく語りかける。相馬の銀縁眼鏡の奥の微笑みが、復讐に燃える私を優しい光で救う。週刊誌とワイドショーは健吾と七海の関係を最も簡単に暴いた。「二人は実の兄妹だった!」#家政婦は見た #実の兄 #近親相姦……週刊誌の見出しは「楠木グループCEOの禁断の恋」と煽り、インターネットから瞬く間に世間に広まる。連日押し寄せる報道陣、家政婦のいない屋敷で健吾と七海は途方に暮れる。客間に墓石のように佇む、マンションから運び出した家財道具を眺め、健吾はこの長年の恋に価値があったのか自問自答する。ジョーカーが次の爆弾を落とそうと浮き足あっていたが、残念ながらその必要はなかった。彼はマンションのリビングでスマートフォンを弄りながらため息をつく。「俺の出る幕ないじゃん」私は微笑みながらパンケーキを焼いた。甘い香りが空間を満たした。「ジョーカー、ジャムがいい?スクランブルエッグがいい?」と問う。彼は「……うーん」と悩みスクランブルエッグを選んだ。陽光が差し込みカーテンの影を作った。観葉植物に埃がキラキラと舞う。「あ、もうそろそろじゃん」穏やかな時間を切り取るようにジョーカーはテレビのリモコンを握った。
ジョーカーはYouTubeアカウントを作成し、次の爆弾を落とした。動画は私が録画した、健吾と七海が祖父の事故について話す薄暗い応接間……顔は見えないが、エミール・ガレの百合ランプが仄かに灯り、罪を暴く。健吾の声は震え、祖父の手に握られた赤い糸が何を意味するのか、七海に多少の疑念を抱く。七海の嘘と自身の盲信の中で揺れるその声が、ネットに拡散される。「私……お祖父様を助けようとして」「そうなのか、大丈夫だ……七海は俺が守る」「お義兄ちゃん」と、白々しい七海の涙声が抱き合った背中から漏れる。薄暗い応接間、エミール・ガレの百合のランプが仄かに灯る中、健吾の盲信が揺れる。「茶番だわ……」と、私は呆れて物も言えない。ジョーカーのYouTube動画は、ワイドショーと週刊誌の恰好の餌食となり、視聴率と売り上げを貪欲に喰らう。そして意図せず、意外な追い風が吹いた。「事件の裏、暴きます! 突撃インタビュー!」と称するユーチューバーが、家政婦のアパートのドアを激しく叩いた。「冴子様! どうしましょう! インタビューに答えないと……帰らないと……!」と、家政婦が声を顰めて電話をかけてきた。「……そうなの」と、私は静かに返す。彼らは報道番組のクルーより早く、楠木家に長年仕える家政婦に注目し、彼女のアパートの前に居座った。
私と相馬が楠木グループ本社で、健吾のイギリス支社視察の領収書や明細書の「開示請求」を確認している頃、ジョーカーは匿名のメールアドレスでイギリスに一通のメールを送信していた。宛先は「オックスフォード大学奨学金委員会」……七海の奨学金が日本の楠木グループの不正資金を利用しているのではないか、至急調査して欲しいという内容だった。蜂の巣を突いたような騒動が起き、委員会は早速調査に乗り出す。そしてもう一通、ジョーカーの匿名メールは七海のオックスフォード大学での論文に不正があるのではないかというリークだった。教授たちは躍起になり、七海の論文を隅々まで調べ上げた。すると、過去の論文からの盗用が次々と判明し、七海のオックスフォードでの学位は停止された。三年間の留学生活は無に帰し、彼女の黒曜石の瞳に輝いた栄光は闇に消える。オックスフォード大学による調査の結果、七海の奨学金は楠木グループの不正資金が利用されていた。相馬の「不正資金の開示請求」は漣のように広がり、楠木グループの終焉を暗示する。健吾の隠し資産が次々と判明し、使途不明金が白日の下に晒される。健吾のブラックカードは七海の為に湯水のように使われていた。会議室の重苦しい空気、健吾の動揺、七海の学位停止……全てが私の手中に。相馬とジョーカーの活躍が背を押し、インターネットは炎上の嵐、イギリス旅行の逢瀬が全てを崩してゆく。冷ややかな笑いが止まらない。ついに楠木グループの緊急株式総会が開催された。
「開示請求書」を楠木グループに提出してから数日後、渋々といった様子でそれは受理された。私は相馬と連れ立ち、楠木グループ本社のエントランスに立っていた。大理石のフロアは隅々まで磨かれ、ガラス張りの壁が冷たく光る……無機質な雰囲気は健吾の傲慢な気質を顕にしていた。受付では、CEOの妻の来社とあって、いつもより背筋が伸びる。「二十四階の第一会議室までお越しください」と、受付嬢は慌ててエレベーターのボタンを押し、恭しくお辞儀で私たちを見送った。エレベーターの鏡に映る私の姿は毅然と、そして冷たい笑みを浮かべていた。隣に立つ相馬は獲物を仕留めるその瞬間に、手ぐすねを引いていた。エレベーターの機械音が低く響き、箱は私たちを乗せて上昇した。勝利への第一歩のようで、胸が喜びで騒めく。扉が開くと、健吾の男性秘書が恭しくお辞儀をする。黒いスーツに臙脂色のネクタイ、顔色は冴えなかった。「……奥様、お久しぶりです」と声を絞り出す。「お元気そうで何よりだわ、いつも楠木が世話をかけて……ごめんなさいね」と、私は悲哀の妻を演じ、微笑みを浮かべる。彼はもう一度深くお辞儀し、動揺を隠せない様子だった。今回の「開示請求」で、「管理不行き届き」の責任を負わされたのだろう。健吾と七海のイギリス旅行の逢瀬……全てがこの会議室で暴かれる。秘書に案内され、会議室のドア前に立った。私は一旦立ち止まり、大きく息を吸う。「緊張してる?」と相馬が小声で囁く。「ちょっとね……」と答え、握り拳を作り、両足に力を込めて床を踏み締める。ノックが三回、「……どうぞ」と、苦々しい返事







